アセアン建築のパイオニアたち:趣旨説明

4月に刊行したmASEANa Project 報告書2016に。私はもうひとつ寄稿した。ハノイで開催した第2回国際シンポジウムのメインテーマ、アセアン建築のパイオニアたちで報告された各国の論考の表紙として書いたものである。これも英語になっているので、日本語の原文をここに掲載しておく。

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アセアン建築のパイオニアたち:趣旨説明

 

日本にとっても非西洋圏にとっても最初の万国博覧会は、1970年の大阪万博であった。日本は1890年、1940年と開催を計画したが、前者は時期尚早、後者は戦争のため、いずれも取りやめになった。以後、日本は第二次世界大戦の敗戦、戦後復興、高度経済成長に遭遇し、1964年の東京オリンピックを経て、1970年の大阪万博の開催にこぎつけた。これは、日本という敗戦国家の経済や社会の成長の象徴としてだけでなく、建築における「輝かしい」成功譚として建築史に記されている。そこでは丹下健三黒川紀章磯崎新、菊竹清則など、戦後日本の建築界を大きな山脈を築いた建築家たちが、科学と技術を信奉しつつ建築での多様な試みを実行している。

 

しかし、1970年の大阪万博は、非西洋、とりわけアジアの建築家たちにとってもとても重要なできごとであった。フィリピン館はレアンドロ・V.ロクシンが、中華民国(台湾)館は、I.M.ペイと李祖原、そして、セイロン館は、ジェフェリー・バウアが建築家として設計にあたっている。その他、カンボジア館、インドネシア館、インド館、シンガポール館、香港館の設計にも、建築家の名前が挙がっている。のちに著名になるロクシンや李祖原、バウアなどが指名されて、国家の建築の設計に当たったのは、独立したばかりのアジアの国々の意気込みを示している。日本人の建築家たちにとって、この大阪万博が檜舞台であったのは当然であるが、アジアの建築家たちがここに参画していることは注目すべきである。それは、欧米の名のある建築家たちが参加していないのとは対照的である。彼らにとって、大阪万博はさしたる意味がなかったのであろう。

 

非西洋にとっての戦後

 非西洋にとって第二次世界大戦終結は、きわめて重要な出来事であった。それは日本の占領が終わったことと同時に、いやそれ以上に、植民地からの解放と独立が達成されたからである。1945年、ベトナム、1946年、フィリピン、1947年、インド、パキスタン、1948年、スリランカ(セイロン)、ビルマ北朝鮮、韓国、1949年、インドネシア、中国、1953年、ラオスカンボジア、1957年、マラヤ(マレーシア)、1965年、シンガポール、という風に順次独立していった。 この間、1955年にインドネシアバンドンで、第一回アジア・アフリカ会議が開催され、第三世界の意義が高らかに宣言された。植民地の解放があったものの、世界はアメリカとソ連という二大世界に分断されおり、独立したアジア・アフリカ諸国は、それに対抗して第3世界を標ぼうしたのであった。

 

1970年の大阪万博での非西洋諸国のパビリオンの建築設計に、のちに著名になる建築家たちが登用されたのは、政治における1955年のバンドン会議に匹敵する重要性が、見出されたからに違いない。ちなみに、高校1年生の春、私はこの大阪万博を訪れ、その科学と技術の祭典に悪酔いして、建築家を志してしまった。

 

アセアン建築のパイオニアたち

今回、2017年1月ベトナムハノイで開催されたmASEANa Project第2回国際会議のメインテーマに、「アセアン建築のパイオニアたち」を選んだのは、アセアンにおける著名建築家がほとんど知られていず、私たちはアセアンで近現代の建築を見る際に、暗黒の中を手探りで歩かざるをえない現状を打開したかったからに他ならない。この後のページで紹介されるアセアンの建築家たちは、言わば暗闇の中のロウソクのようなものである。一本のロウソクを持ちながらアセアンの近現代建築史という暗闇を歩いていくと、かすかながら道が見える。まして、複数になれば、もっと全体が見渡せる。

 

これの建築家たちは、いくつかの共通性を持っている。順不同で述べれば次のようになるだろう。

1.戦前の植民地で建築教育を受けたこと。宗主国の建築理解が色濃くしみわたっている。

2.冷戦という二つに分断された世界構造が、かれら建築家にも影を落としていること。ベトナムが典型的だが、北ベトナムソ連の影響、南ベトナムはアメリカの建築の影響が強い。この差異は、北朝鮮と韓国、中国と台湾でも如実に見ることができる。

3.ル・コルビュジエから始まるモダンムーブメントがアメリカとソ連経由でやや形式化されて伝播したものが、観念的に利用されていること。

4.建設技術、構造・設備、材料などについては、戦後賠償で戦後再びこの地域に参入した日本の影響が色濃くつよい。彼らアセアン建築のパイオニアたちは、実はこの日本の大手ゼネコンと肩を組みながら進んでいったといえる。

5.気候への関心が強いこと。気候への関心は、ル・コルビュジエのチャンディガールなどからの影響であって、とりわけ、東南アジアの熱帯気候への配慮が好んで模倣された。

6.伝統への関心が強いこと。彼らはいずれも、モニュメントとしての建築の設計に関与して、国家をシンボライズすることに熱情を傾けた。

7.政治家たちとの関係が強いこと。シラバンスカルノ、ヴァン・モリバンシアヌーク、ロクシンとマルコスなど、建築家と政治家、しかも強権をもった政治家のと強いつながりが、かれらをパイオニアとして後押していった。

 

彼らとその作品への評価

これらアセアン建築界のパイオニアたちは、過去を照らすロウソクであった、と先に述べた。だが、彼らの事績は、それぞれの国でさえほとんど知られていない。今回、この会議で報告をした若い建築史研究者、建築評論家、建築家たちがここ数年、関心をもって、ほぼ二世代前のパイオニアたちの履歴、作品をひとつひとつ明らかにして、初めて世界に紹介された画期的な出来事である。何人かの建築家たちはいまだ健在であるにも関わらず、グローバリゼーションから関心を持たれず、歴史の闇に飲み込まれてしまっていた。

 

私たちが、かれらパイオニアたちの事績に関心を持つのは、単に、1970年の大阪万博のパビリオンの設計者として彼らを顕彰したいからではない。独立後の様々な困難(国家建設、文化の普及、住宅問題の解決、建築教育の推進など)に取り組んで獲得した経験―それは教訓ばかりでなく失敗もあるはずだ―を真摯に学ぶことができる智慧の宝庫だからである。そして、もうひとつ、彼らの設計した建物が現在、記憶や愛着の摩滅、社会経済や政治の変革、価値観の転換から再解釈をされる時期に来ているからである。街や村に存在する彼らの作った公共建築、ビル、工場、集合住宅などをどのように受け継ぎ、あるいは消し去っていくか、それは私たちが現在直面した課題である。その判断をする際にも、やはりこの先人たちの事績を発掘して、評価のテーブルの上に置く必要がある。

 

ここに掲載された論考は、確かにわずかな分量と少数の建築家たちを分析したものに過ぎない。だが、以上の目標に一歩近づいているものとして、熟読玩味して、批評をお願いしたい。