ぼくまち通信(2)その歴史

いよいよ指令発表ですが、その前に、ぼくまちの歴史です。なぜ、ぼくまちが始まったのか。

 

ぼくまちの歴史:

ぼくらは街の探検隊(以下、ぼくまち)が始まったのは2004年度の冬からでした。この時はまだ理念や手法などいうものはもとより、すべてが模索状態でしたから、5年生のプログラムとして試みにやってみて、そして、彼らが6年生になっても年度をまたいで続けました。ですから、2017年度の今年で、13回目ということになります。

 

実はその年の夏、私は、上海で大学生や大学院生を集めて大規模の工場再生ワークショップを主催しました。mAAN(アジア近代建築ネットワーク)という汎アジア的組織を、友人たちと2001年に立ち上げていたのですが、国際会議の開催など机上の議論だけでなく実際の社会にかかわることをやってみたいと考えて、世界中から参加者70人を募って、暑い夏の上海の2週間を堪能しました。こういった大きな実践企画は私自身初めてであり、国際的なワークショップは当時として画期的なものでした。シンガポール、中国、日本、インドなど各地から集まった建築家が教師となってそれぞれの角度から、黄浦江の河沿いに建つ1920年代初頭以降の工場の再生案を学生たちと提案するものでした。

 

私は、当時7歳だった娘を伴っていきました。彼女はすることもなく、野良猫と遊んだりしていて手持無沙汰だったので、彼女にも課題を与えました。それは、参加者すべての肖像画を描いて、ワークショップの最後に展覧会をやるというものでした。今思えば、これが指令の原型です。70人すべての顔を描くのはさすがに大変でしたが、最後は泣きながらとうとうやりきって展覧会の挨拶した姿には、わが子ながら感銘したものです。実は、ぼくまちはここから始まったのです。

 

もうひとつの動機は、地域とのつながりを持ちたいという意識であって、これも上海のワークショップで湧きあがったからでした。私の勤務する東京大学生産技術研究所は1997年に六本木から駒場の地に移ってきましたが、私自身近隣について何も知りません。上海の街はよく知っていても自分の勤務先の周囲は知らない。じゃあ、上海でやったことをここでもやろうと、帰った後、研究室の大学院生たちと相談しました。近所にはふたつの小学校があり、まず、目黒区の駒場小学校に赴いたのですが、やんわりと断られました。

 

もうひとつが、渋谷区の上原小学校でした。今度は校長先生が会ってくださって、ああ、それはいいと即決してくださいました。それが、女性の岡野先生です。今でもこの時のことは思い出されます。以来、校長先生は4人代わり、今の稲葉先生になったわけです。そして、今年は、7歳の時、上海で絵を一心に描いてくれた娘が副隊長として参加してくれます。残念ながら東大ではありませんが、ちょっと嬉しいですね。

 

全体スケジュールと指令、そして本日(5月12日)の内容:

 本日は第2回です。今日、指令が子供たちに渡されます。とりあえず、ここでお知らせします。どうですか、できますか?

 

青チーム:上原の青写真を継承しなさい。

赤チーム:上原の時間を和えなさい。

黄色チーム:上原の”間”を輝かせなさい。

緑チーム:上原の”オーケストラ”を奏でよう。

 

今日も4時限です。1時限は、グループに分かれておそろいの色のTシャツを着た隊長、副隊長と隊員の子供たちとの初対面で、自己紹介をします。2時限目が指令発表、私から各グループに手渡されます。3時限、4時限は、解読です。図書館に行ったり、もうまちに出たりと、難しい指令を解いていきます。