野蛮ギャルド建築学会第1回学術報告会論集刊行

〇洒脱8割と本気2割:

昨年11月19日、開催された野蛮ギャルド建築学会設立大会、兼、藤森照信先生古稀記念学術報告会の論集が刊行された。村松研の助教の岡村健太郎さんと編集者の加藤郁美さんの多大なるご尽力で、小粒だけれど内容の詰まったA5版冊子になった。表紙は写真家増田彰久さん撮影の高過ぎ庵。ぼくは、手に取って、あるいは、机の上に置いて眺めつつ、思わず笑みがこぼれてしまう。

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野蛮ギャルドというのは、もちろん、藤森さんの造語で、先鋭的だがすこし変、あるいは、最近、ぼくが好んで使っている用語では、卒業生の原川さんの造語による「異常式」とほぼ同じだろう。常識でもなく、非常識でもなく、現実を突破する異なった力をもったふるまい、精神、その結果、である。

 

論集は、野蛮ギャルド建築学会創設宣言にはじまって、A.都市・その他、B.建築、C.素材・部材の三つのカテゴリーでの当日の報告が記録されている。さらに、当日参加できなかった西澤泰彦さんと会の最後に報告された藤森さん本人の「ルーマニアのヘンな建築」が収録されている。続いて、増田彰久さん、堀勇良さん、国広ジョージさんなどOBからの祝辞、最後に藤森さんご夫妻のご挨拶、末尾には、野蛮ギャルド建築会規約が掲載されている。

 

何人かの発表者は、この建築会のもつ意味を理解できず、全部洒落、あるいは、全面本気になってしまっているが、まあ、洒脱8割本気2割が理想であろう。それが野蛮ギャルド、もしくは、異常式のもつ本来の意味である。本気の中に洒落が入ることは、とても重要であるし、本気10割の何十倍かの努力、能力が必要とされ、それが社会を変えていく。

 

当日、藤森さんから授与された大賞、中賞、少賞は、それぞれ、岡村健太郎さん(東大助教)「塗ルカ焼クカー野蛮ギャルド素材:焼杉」、内田祥士さん(東洋大教授)「路上を仰ぎ、天井裏を覗く―電線派配線作法」、谷川竜一さん(金沢大学助教)「ハルピン女はビロードまたたく夢を見る」で、3人とも学術業績の欄に記載している。とてもすごい内容で、これでそれぞれ一冊の本ができるはず。残念ながら賞に漏れたが、ぼくの学術報告は、「スコットは南極で何を見たか?-心身一元論としての頭立ちスケープの可能性」であった。

 

〇1/100の力

東京大学生産技術研究所というところは、戦時下の1941年に創られた第2工学部に端を発している。本郷にある第1工学部に対して、常に何らかの差異を積極的に示す必要があったし、それは今でもある。それは建築史研究でも同様で、藤森さんの口癖は「本郷はお公家さん、生研は野武士」、野蛮ギャルド建築会はその延長線上にある。昨年の学術報告会の雰囲気も、かつての藤森研のゼミに似ていた。

 

生研には、150人程度の教員がいて、工学部だからすべての学科が揃っている。土木・建築は、ひとつの部門をつくり、ぼくも属するそれは人間・社会部門と称されている。ほとんどの教員は、そこに山あるから登る、あるいは、他との競争、というのは工学や理学者の本能的な態度を取り、新たなものを世界で誰よりも先に発見したり、発明したりすることに心身が自動的に動いてしまう。でも、ぼくたちの建築史(都市史)は少し違う。社会の問題点の原因を過去にさかのぼって明らかにしたり、過去から教訓を獲得したりする。さらには自分たちの学問自身に批判的な視線を投げかける。何も作らないし、お金もってこない。毎日ぶらぶらしている。ということで、生研の中では創設当時から評判は芳しくない。

 

つまり、1/100を生きることはそれほど容易ではない。傍から見ているほど、安穏とできるわけでもない。それでも、関野克、村松貞次郎藤森照信、そして、ぼくというように細々と命脈を保ってきている。本郷では、伊東忠太関野貞、藤島亥治郎まで、前史で、太田博太郎、稲垣栄三鈴木博之、藤井恵介・伊藤毅、再建では加藤耕一と、保守本流が確固として受け継がれ来ているのと対比的だ。

 

連句の如く

丸谷才一によれば、「連句は五七五の長句と七七の短句とを互ひ違ひに組合わせて作る詩です。原則として、何人もが一堂に会して合作でやる。」(『歌仙の愉しみ』、岩波新書)であって、近頃この本を風呂に入ったり、通勤の途上で、少しずつ読んでいる。作ることも「愉しい」のだろうが、この本を読むことも「愉しい」。大岡信岡野弘彦丸谷才一という稀代の文人、といってもそのうちのお二人はもうお亡くなりになっているが。

 

研究を世代を超えてつないでいくのは、連句に似ていると、と滋味溢れるこの本を途中まで読んではたと気づいた。発句に始まり、脇があり、そして、第三句、さらに第四句。それぞれが定式というものがあると、この本は言っている。発句は挨拶のようにそっと出すというのは、いかにも関野克さんの人柄に似ている。二句目の脇は寄り添うことで、これも関野さんに寄り添った村松貞次郎さんのようだ。第三句は、難しいらしい。第二句に離れなくてはいけないが、そんなに離れてはいけない、ということで、まさに藤森さんを形容している。建築家になって大いに展開しているが、決して生研建築史研究のヘンなスタイルからは外れない。

 

さて、第四句は、ぼくに当たるのだが、「非常に穏やかに第三を補佐する」とのこと。そういわれて、少しほっとした。あと34か月で退任する身としては、つつがなく、穏やかに藤森さんを補佐することができ、次につないでいけたとはず。連句としても合格となるだろう。この野蛮ギャルド建築会の創設も、つなぎを作る仕組みのひとつである。では、第五句はどうなるだろうか。後進のみなさん、よろしくお願いします。洒脱で、遊戯性のある連句の如く、野蛮ギャルドな建築史をつないでいって欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

ぼくまち通信(3)超絶、水谷先生!

 

超絶!水谷先生:

朝8時20分、私の研究室で隊長や副隊長たちと待機していると突然、ぼくまちの助手穴水さんのところに上原小学校から電話がかかってきました。今日は時間割が急きょ変更になり、8時半からの開始となった、とのこと。いつもは8時45分ですから8時30分に出てゆっくり歩いていくのが習わしです。急いで出立して到着したのが8時40分、私たちのいない間に、担任の水谷先生がつなぎの授業をやってくれていました。

 

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それは見事でした。私が言ってもあまり真実味がないでしょうが。前回、指令が発表されています。それを受けて、子供たちはグループになって意味を調べたり、探検に行ったりと指令の解読を進めています。つなぎのほんの10分くらいの時間で水谷先生が行っていたのは、その復習でした。前回、何をして、何がわかったかを子供たちに質問し、鋭く問いを重ねたり、ほめたりするのです。子供たちの発言も的を射ていましたが、それを引き出す水谷先生の教育の技はほれぼれするものでした。少し遅れてきた隊長、副隊長たちもその技に圧倒されて、呆然としていました。それぞれの指令の意図を読み解き、どのように導いていくかの手法に格段の差があることは、もう歴然としていたからです。

 

水谷先生の里まち:

ぼくまち第3回目の本日5月15日(月)は、まず、担任の水谷先生と私がそれぞれの里まちについて紹介し、2時間目以降はグループごとに指令解読を進めます。

 

水谷先生の里まちは、東京の台東区秋葉原に近い竹町というところです。「まちのプライドを探しなさい」そういう指令を受け取ったということで、水谷先生は話を始めました。まず、まちのプライドとは何か、それを読み解いていきます。ご自身の里まちの紹介を通して、実はこのプログラムの構造を子供たちに伝えているのです。「担任の先生の里まち」という授業は、ここ数年の試みです。担任の先生によりプログラムに関与してもらいたい、ということから始まりました。

 

でも、水谷先生の話はさらに当初の私たちの意図を超えて、このプログラム、つまり、まちリテラシーとは何か、どうやって指令を読み解いていくか、いくつかの教えが重層的に盛り込まれていました。そして、最後は提言になっています。つまり、どのようにまちに関与するかというスキルへの応答です。水谷先生は、ぼくまちに3回目の登場です。プログラムが修正されたのは、実は過去に水谷先生からのフィードバックがあったからです。もはや脱帽です。

 

博士の里まち:

 ついで私自身の里まち紹介でした。準備はしていったのですが、水谷先生の里まち紹介に圧倒されて、その場で指令形式に書き変えました。「里まちとはなんでしょうか?」それを明らかにしなさいという指令です。これも、自分の里まちの紹介をとおして、里まち自体をどのよう考えたらいいかという二重構造になっています。

 

 私自身、静岡県の農村で育ち、その村が嫌で、東京に出てきて、世界中を転々としました。北京、ソウル、ボストンに比較的長く滞在し、それだけでなく、ハノイバンコクジャカルタをそれぞれ数年にわたって克明に調査した経験があります。近年、故郷に帰り、そこをよく観ることを継続しておこない、以前のような嫌悪感はなくなって、いとおしい気持ちが出てきました。そんな体験、心持の変化を話しました。結論は、住めば里まち、住まなくても里まち、住んでも里まちではない。の三つのフレーズです。それがまちリテラシーと結びついていることもそこに組み入れています。

 

 今こうやってロジカルに書いていますが、実際の話の際は舌足らずになってしまい、辛うじて合格したにすぎません。後で娘に聞くと、同じ言葉ばかり使って、浅い話であった、と低い評価でした。超絶、水谷先生の話は、決して内容が新しいわけではありませんが、わかりやすく同じことを何度も丁寧に繰り返し、細部の形容、説明が際立っていました。私の場合、いつもそうですが、全体の流れを重視するために、細部がおろそかになってしまいます。早く早く結論にたどり着こうとして、話が小走りになってしまうのです。

 

 本日は、学生たちも私も、水谷先生の伝えるという技芸に圧倒された日でした。ぼくまちは、子どもたちだけでなく、私たちにも大いに学ぶことがあること実感しました。

 

第4回ぼくまちの予定:

 明日5月19日(金)第4回目のぼくまちは、次回の中間発表に向けて準備します。発表にはどんなことを注意したらいいか、そのための内容の補足に探検に出たり、議論したりします。

目出度さも!

 63歳になった。63をネットで調べると、62の次で、64の前の数、といささかそっけない。素数であるとか、完全数だとかであれば、また一興なのだが、過ぎていく人生の普通の数にすぎない。まあ、7×9で、9回目の7の倍数、くらいが関の山かもしれない。

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9回目の7の倍数

・7×0:1954年(昭和29年)、午年、0歳。47日、伊東忠太逝去。517静岡県周智郡三川村で誕生。父、忍、母、志づ枝の長男。12月、鳩山一郎内閣発足。高度成長(-73)11月、ゴジラ公開。

・7×1:1961年(昭和36年)、丑年、7歳。4月、袋井市立三川小学校入学。テレビを村で初めて購入。

・7×2:1968年(昭和43年)、申年、14歳。4月、周南中学校2年生。霞が関ビルオープン(知らなかったが)。

・7×3:1975年(昭和50年)、21歳、東京大学理科一類2年。1月の成人式は、祐天寺の3畳一間の下宿で、足立巻一『やちまた』を読んでいた。10月から建築学科に進学。

・7×4:1982年(昭和57年)、28歳、北京の清華大学留学中。10月、上海へ。藤森さんたちと合流し、上海近代建築調査。

・7×5:1989年(昭和64年、平成元年)、35歳、東京大学生産技術研究所助手2年目。17日、天皇崩御。中国近代建築調査で、天津、煙台、青島などを移動。6月4日、天安門事件

・7×6:1996年(平成8年)、42歳。3月、SD,ベトナム特集刊行。4-9月、ボストン・ハーバード大へ訪問学者。9月、『全調査:東アジア近代の都市と建築』(筑摩書房)出版。12月14日。結婚。生研が駒場に移転。ハノイ調査継続。

・7×7:2003年(平成15年)、49歳。インドネシア、メダン調査。ウランバートル調査、サマルカンド調査。mAAN第3回会議(スラバヤ)開催。

・7×8:2010年(平成22年)、総合地球環境学研究所勤務。56歳、3月16日、藤森先生退官記念講演会。FR1、10月『シブヤ遺産』刊行(バジリコ)。上海万博。mAANソウル大会開催。

 

9回目の7の倍数

 で、本年は、7の9倍の年。朝、腕振り体操、足振り体操。博士課程ドミトリー氏の奨学金の評価書記入。12時、生産技術研究所にて、博士課程蔡さんの博士論文の打ち合わせ。2時から教授総会。腕振り体操しすぎてうたたね。これから遅れている本の校正を進め、帰宅して、読まなくてはいけない本をいくつか読んで、寝る、と思う。

 

 小林一茶にちなんで、私の63歳の誕生日は、「目出度さもちう位也おらが春」でしょうか。ちなみに、一茶は65歳で逝去している。あちゃ。でも、多くの友人、知人から誕生日のメールをもらった。ありがたいことです。感謝。

 

 

 

 

アセアン建築のパイオニアたち:趣旨説明

4月に刊行したmASEANa Project 報告書2016に。私はもうひとつ寄稿した。ハノイで開催した第2回国際シンポジウムのメインテーマ、アセアン建築のパイオニアたちで報告された各国の論考の表紙として書いたものである。これも英語になっているので、日本語の原文をここに掲載しておく。

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アセアン建築のパイオニアたち:趣旨説明

 

日本にとっても非西洋圏にとっても最初の万国博覧会は、1970年の大阪万博であった。日本は1890年、1940年と開催を計画したが、前者は時期尚早、後者は戦争のため、いずれも取りやめになった。以後、日本は第二次世界大戦の敗戦、戦後復興、高度経済成長に遭遇し、1964年の東京オリンピックを経て、1970年の大阪万博の開催にこぎつけた。これは、日本という敗戦国家の経済や社会の成長の象徴としてだけでなく、建築における「輝かしい」成功譚として建築史に記されている。そこでは丹下健三黒川紀章磯崎新、菊竹清則など、戦後日本の建築界を大きな山脈を築いた建築家たちが、科学と技術を信奉しつつ建築での多様な試みを実行している。

 

しかし、1970年の大阪万博は、非西洋、とりわけアジアの建築家たちにとってもとても重要なできごとであった。フィリピン館はレアンドロ・V.ロクシンが、中華民国(台湾)館は、I.M.ペイと李祖原、そして、セイロン館は、ジェフェリー・バウアが建築家として設計にあたっている。その他、カンボジア館、インドネシア館、インド館、シンガポール館、香港館の設計にも、建築家の名前が挙がっている。のちに著名になるロクシンや李祖原、バウアなどが指名されて、国家の建築の設計に当たったのは、独立したばかりのアジアの国々の意気込みを示している。日本人の建築家たちにとって、この大阪万博が檜舞台であったのは当然であるが、アジアの建築家たちがここに参画していることは注目すべきである。それは、欧米の名のある建築家たちが参加していないのとは対照的である。彼らにとって、大阪万博はさしたる意味がなかったのであろう。

 

非西洋にとっての戦後

 非西洋にとって第二次世界大戦終結は、きわめて重要な出来事であった。それは日本の占領が終わったことと同時に、いやそれ以上に、植民地からの解放と独立が達成されたからである。1945年、ベトナム、1946年、フィリピン、1947年、インド、パキスタン、1948年、スリランカ(セイロン)、ビルマ北朝鮮、韓国、1949年、インドネシア、中国、1953年、ラオスカンボジア、1957年、マラヤ(マレーシア)、1965年、シンガポール、という風に順次独立していった。 この間、1955年にインドネシアバンドンで、第一回アジア・アフリカ会議が開催され、第三世界の意義が高らかに宣言された。植民地の解放があったものの、世界はアメリカとソ連という二大世界に分断されおり、独立したアジア・アフリカ諸国は、それに対抗して第3世界を標ぼうしたのであった。

 

1970年の大阪万博での非西洋諸国のパビリオンの建築設計に、のちに著名になる建築家たちが登用されたのは、政治における1955年のバンドン会議に匹敵する重要性が、見出されたからに違いない。ちなみに、高校1年生の春、私はこの大阪万博を訪れ、その科学と技術の祭典に悪酔いして、建築家を志してしまった。

 

アセアン建築のパイオニアたち

今回、2017年1月ベトナムハノイで開催されたmASEANa Project第2回国際会議のメインテーマに、「アセアン建築のパイオニアたち」を選んだのは、アセアンにおける著名建築家がほとんど知られていず、私たちはアセアンで近現代の建築を見る際に、暗黒の中を手探りで歩かざるをえない現状を打開したかったからに他ならない。この後のページで紹介されるアセアンの建築家たちは、言わば暗闇の中のロウソクのようなものである。一本のロウソクを持ちながらアセアンの近現代建築史という暗闇を歩いていくと、かすかながら道が見える。まして、複数になれば、もっと全体が見渡せる。

 

これの建築家たちは、いくつかの共通性を持っている。順不同で述べれば次のようになるだろう。

1.戦前の植民地で建築教育を受けたこと。宗主国の建築理解が色濃くしみわたっている。

2.冷戦という二つに分断された世界構造が、かれら建築家にも影を落としていること。ベトナムが典型的だが、北ベトナムソ連の影響、南ベトナムはアメリカの建築の影響が強い。この差異は、北朝鮮と韓国、中国と台湾でも如実に見ることができる。

3.ル・コルビュジエから始まるモダンムーブメントがアメリカとソ連経由でやや形式化されて伝播したものが、観念的に利用されていること。

4.建設技術、構造・設備、材料などについては、戦後賠償で戦後再びこの地域に参入した日本の影響が色濃くつよい。彼らアセアン建築のパイオニアたちは、実はこの日本の大手ゼネコンと肩を組みながら進んでいったといえる。

5.気候への関心が強いこと。気候への関心は、ル・コルビュジエのチャンディガールなどからの影響であって、とりわけ、東南アジアの熱帯気候への配慮が好んで模倣された。

6.伝統への関心が強いこと。彼らはいずれも、モニュメントとしての建築の設計に関与して、国家をシンボライズすることに熱情を傾けた。

7.政治家たちとの関係が強いこと。シラバンスカルノ、ヴァン・モリバンシアヌーク、ロクシンとマルコスなど、建築家と政治家、しかも強権をもった政治家のと強いつながりが、かれらをパイオニアとして後押していった。

 

彼らとその作品への評価

これらアセアン建築界のパイオニアたちは、過去を照らすロウソクであった、と先に述べた。だが、彼らの事績は、それぞれの国でさえほとんど知られていない。今回、この会議で報告をした若い建築史研究者、建築評論家、建築家たちがここ数年、関心をもって、ほぼ二世代前のパイオニアたちの履歴、作品をひとつひとつ明らかにして、初めて世界に紹介された画期的な出来事である。何人かの建築家たちはいまだ健在であるにも関わらず、グローバリゼーションから関心を持たれず、歴史の闇に飲み込まれてしまっていた。

 

私たちが、かれらパイオニアたちの事績に関心を持つのは、単に、1970年の大阪万博のパビリオンの設計者として彼らを顕彰したいからではない。独立後の様々な困難(国家建設、文化の普及、住宅問題の解決、建築教育の推進など)に取り組んで獲得した経験―それは教訓ばかりでなく失敗もあるはずだ―を真摯に学ぶことができる智慧の宝庫だからである。そして、もうひとつ、彼らの設計した建物が現在、記憶や愛着の摩滅、社会経済や政治の変革、価値観の転換から再解釈をされる時期に来ているからである。街や村に存在する彼らの作った公共建築、ビル、工場、集合住宅などをどのように受け継ぎ、あるいは消し去っていくか、それは私たちが現在直面した課題である。その判断をする際にも、やはりこの先人たちの事績を発掘して、評価のテーブルの上に置く必要がある。

 

ここに掲載された論考は、確かにわずかな分量と少数の建築家たちを分析したものに過ぎない。だが、以上の目標に一歩近づいているものとして、熟読玩味して、批評をお願いしたい。

ぼくまち通信(2)その歴史

いよいよ指令発表ですが、その前に、ぼくまちの歴史です。なぜ、ぼくまちが始まったのか。

 

ぼくまちの歴史:

ぼくらは街の探検隊(以下、ぼくまち)が始まったのは2004年度の冬からでした。この時はまだ理念や手法などいうものはもとより、すべてが模索状態でしたから、5年生のプログラムとして試みにやってみて、そして、彼らが6年生になっても年度をまたいで続けました。ですから、2017年度の今年で、13回目ということになります。

 

実はその年の夏、私は、上海で大学生や大学院生を集めて大規模の工場再生ワークショップを主催しました。mAAN(アジア近代建築ネットワーク)という汎アジア的組織を、友人たちと2001年に立ち上げていたのですが、国際会議の開催など机上の議論だけでなく実際の社会にかかわることをやってみたいと考えて、世界中から参加者70人を募って、暑い夏の上海の2週間を堪能しました。こういった大きな実践企画は私自身初めてであり、国際的なワークショップは当時として画期的なものでした。シンガポール、中国、日本、インドなど各地から集まった建築家が教師となってそれぞれの角度から、黄浦江の河沿いに建つ1920年代初頭以降の工場の再生案を学生たちと提案するものでした。

 

私は、当時7歳だった娘を伴っていきました。彼女はすることもなく、野良猫と遊んだりしていて手持無沙汰だったので、彼女にも課題を与えました。それは、参加者すべての肖像画を描いて、ワークショップの最後に展覧会をやるというものでした。今思えば、これが指令の原型です。70人すべての顔を描くのはさすがに大変でしたが、最後は泣きながらとうとうやりきって展覧会の挨拶した姿には、わが子ながら感銘したものです。実は、ぼくまちはここから始まったのです。

 

もうひとつの動機は、地域とのつながりを持ちたいという意識であって、これも上海のワークショップで湧きあがったからでした。私の勤務する東京大学生産技術研究所は1997年に六本木から駒場の地に移ってきましたが、私自身近隣について何も知りません。上海の街はよく知っていても自分の勤務先の周囲は知らない。じゃあ、上海でやったことをここでもやろうと、帰った後、研究室の大学院生たちと相談しました。近所にはふたつの小学校があり、まず、目黒区の駒場小学校に赴いたのですが、やんわりと断られました。

 

もうひとつが、渋谷区の上原小学校でした。今度は校長先生が会ってくださって、ああ、それはいいと即決してくださいました。それが、女性の岡野先生です。今でもこの時のことは思い出されます。以来、校長先生は4人代わり、今の稲葉先生になったわけです。そして、今年は、7歳の時、上海で絵を一心に描いてくれた娘が副隊長として参加してくれます。残念ながら東大ではありませんが、ちょっと嬉しいですね。

 

全体スケジュールと指令、そして本日(5月12日)の内容:

 本日は第2回です。今日、指令が子供たちに渡されます。とりあえず、ここでお知らせします。どうですか、できますか?

 

青チーム:上原の青写真を継承しなさい。

赤チーム:上原の時間を和えなさい。

黄色チーム:上原の”間”を輝かせなさい。

緑チーム:上原の”オーケストラ”を奏でよう。

 

今日も4時限です。1時限は、グループに分かれておそろいの色のTシャツを着た隊長、副隊長と隊員の子供たちとの初対面で、自己紹介をします。2時限目が指令発表、私から各グループに手渡されます。3時限、4時限は、解読です。図書館に行ったり、もうまちに出たりと、難しい指令を解いていきます。

 

なぜ、いかに、私たちは、アジアの近現代建築に関心を持つのか?

 4月に公刊されたmASEANa Projectの2016年度の報告書は、アセアンの近現代建築のパイオニアを特集し、ハノイホーチミンの近現代建築の重要物件を掲載している。発行部数が少ないことと英語なので、わたしが書いた文章の日本語原文をここに転載する。タイトルは、「なぜ、いかに、私たちは、アジアの近現代建築に関心を持つのか?-mASEANa Project 2015-20 の歴史と2016年度の活動報告」であり、やや長いけれど、記録として全文を載せる。なお、報告書のPDFは、簡便な形でアクセスできるように現在画策中。

 

2015年11月1日、東京上野。

東京上野に静かにたたずむ国立西洋美術館の地下一階会議室に、2015年11月1日、アセアン10か国のうちの9か国から近現代建築の専門家が集まった。1959年、ル・コルビュジエによって設計された、静謐とも形容できるモダン・ムーブメントの代表建物の中で、アセアンの近現代建築に関する新たなプロジェクトが産声を上げたのは、きわめて現代的意味を有している。世界を席巻したモダン・ムーブメントがスクラップ&ビルトの危機にさらされていて、それを克服するためこの会議の翌年2016年夏、この国立西洋美術館世界遺産に認定された。そして、その余勢を駆って、さらに危機にあるアセアンのモダン・ムーブメントの発掘、評価、記録、再生などを目標とした新しいプロジェクトがこの場所で生まれたのは、情報や思考、価値観が瞬時に世界を駆け巡るという意味で、現代的であり、かつ世界の緊密なネットワーク化を象徴していた。

 

この短い論考で、私は、後々のために、なぜ、いかに、201511月、のちにmASEANa Project2015-20と命名される小さなグループが立ち上がり、2016年の一年間、どのような活動をおこない、いかなる成果を得たのかを述べようと思う。

 

●三つのグループ

201511月のこの集まりは、三つの異なったグループ、すなわち、DOCOMOMOグループ、ICOMOSグループ、そして、mAANグループで構成されていた。

 

DOCOMOMOは、1988年、オランダで設立された、モダン・ムーブメントの記録と保全を目的とした国際的なグループである。現在の会長はその三代目、ポルトガル人のアナ・トストエス博士である。全世界で72か国に広がるこの国際組織の日本支部DOCOMOMO Japanとして 2000年に認定された。1920年頃から欧米に生起した新しい建築の波、すなわち、モダン・ムーブメントは、欧米以外では、ブラジル、日本へと大きく押し寄せた。それが、常識的理解であり、その結果がル・コルビュジエとその弟子たちによる上野の国立西洋美術館なのである。今回は、ドコモモインターナショナル会長のアナ・トストエス博士と、日本支部代表、松隈洋博士、副代表の山名善之博士などがこの会に参加していた。

 

1965年に設立されたICOMOS は、2005年にその組織の中に20世紀委員会を設置した。世界遺産の建造物についてユネスコに諮問するこの組織は、世界遺産が古いものに偏っているという批判を乗り越えるために、近現代建築への関心を20世紀委員会にその使命を託した。201510月末、福岡でICOMOSの世界大会が開催されたこともあり、アセアン関係のICOMOS各国会員も上野のこの会に出席していた。ただ、ICOMOSの関係者は、考古学関係、前近代のモニュメントに強く、20世紀委員会の委員は多くDOCOMOMOと重なっている。

 

三つ目のmAANは、2000年、マカオで、私とシンガポール大学Johannes Widodo 博士が中心となって設立したアジアの近現代建築について考えるという組織である。modern Asian Architecture Network を省略したこの組織は、modern の頭文字が大文字でなく、小文字である点に端的にその設立の意図が込められている。DOCOMOMOが世界へと普遍的なモダン・ムーブメント建築の保全と記録を目指し、それがアジアに手を伸ばし始めたことに危機感を感じ設立されたmAANは、非西洋、とりわけアジアには、植民地期を経て独自の近現代建築の流れが誕生したという考え方を、この小文字のmodern に込めていた。201511月のこの会には、私、Widodo 氏を含めて、多くの、しかも若いmAAN関係者が関与していた。

 

●前史:mASEANa Project 2015-20が誕生するまで

201511月がmASEANa Project2015-20の誕生だとすると、その前史を少しだけ述べる必要があるだろう。これには、DOCOMOMO Japan国際交流基金が強くかかわっている。

 

20142月、DOCOMOMO Japan 代表の松隈洋博士が、国際交流基金の依頼でプノンペンの日本建築展覧会において日本建築の講義をおこなったことが発端である。カンボジア近現代建築のパイオニアのひとり、ヴァン・モリバン博士の作品群を見学し、また博士とも面会し、その建物に魅せられた。同年5月、副代表の山名博士もプノンペンを訪れ、カンボジア建築のパイオニアとも言える建築家ヴァン・モリバン博士と面会した。この時山名博士は、カンボジアにおける近現代建築の破壊の危機に関して助けて欲しいとの要請をヴァン・モリバン博士から受けている。山名博士は帰国後、プノンペンでの活動内容を国際交流基金へ報告し、その際、文化事業として近現代建築の事業を展開したいので協力して欲しいとの依頼を受けた。

 

 さらに、20146月、国際交流基金の派遣でDOCOMOMO Japanの山名博士、渡辺博士がバンコクに赴き、近現代建築に関して学術会議、ドコモモタイ設立の話をおこない、DOCOMOMOのアジア展開は急進する。2014年9月、ドコモモ国際会議が韓国ソウルで開催された際、カンボジアからヴァン・モリバン関係者2名がソウル、東京に国際交流基金によって招かれ、10月2日、東京の国際交流基金で国際会議「20世紀近代建築遺産の保存・活用を考える:世界・日本の状況とカンボジアのこれから」が開かれた。その後のパーティーの会場にて、国際交流基金のスタッフからDOCOMOMO Japanは、2018年。もしくは2020年のDOCOMOMO国際会議の東京招致をふくむ2020年までの共同事業を提案され、それがこのプロジェクトの発端となったのである。

 

mASEANa Project 2015-20

 プロジェクトの名前は、modern ASEAN architecture Project 2015-20である。そして、スローガンとして、Appreciating Asian modern を常に付随させている。ここでmodern が小文字なのは、mAANと同様、欧米発の大文字Modernだけでなく、複数のmodernが存在することを主張するためである。今回は、architecture の概念すら多様であることを主張して、これも小文字を使っている。

 

アジアの近現代は、植民地化され、独立戦争があり、独立後の動乱、経済成長と破たんなど、さまざまな変化が、年年歳歳生起している。しかし、そこで建てられた建物は、伝統建築に比して、まったく評価されていないのが現況である。ただ、現実に、都市や町や村にあるのは、ほとんどがこの近現代に建てられた建物である。この建物とともにひとびとは生活し、記憶としてとどめている。それを評価し、未来のための資源として、遺産として継承していくのは、そこに住む個人のため、地域のため、そして、人類すべて、さらに地球環境のためであると、私たちは考えた。短い副題にはその意図が込められている。

 

mASEANa Project2015-20 には、三つのゴール、すなわち、1.アセアン近現代建築のインベントリーを作る、2、アセアン近現代建築の歴史書を編纂する、3. アセアン近現代建築の保全を考える、がある。201511月のキックオフの国際会議を含めて、毎年度アセアンの異なる国を集中的に研究、調査し、その国の近現代建築を考える。そして、2020年には、その3つのゴールを世界に示すというのが、全体の構想なのである。

 

2016年度活動報告

2016年度は、年度初めの計画ではタイを対象とするはずであったが、タイ側のもたつきから、急きょベトナムを主対象として、計画を実行した。日本から私と山名博士、そして、それぞれの学生が参加して、ホーチミン建築大学、ハノイ建設大学の専門家、学生たちと協働で、それぞれの都市の近現代建築のインベントリー作成を実施した。このプロジェクトは、私が代表となっているトヨタ財団からの助成「アセアン5ヵ国における『都市遺産の保全に関するリテラシー』の向上」とも協働している。

 

その成果は、2017年1月ハノイで開催された第2回mASEANa国際会議、同年3月東京で開催された第3回mASEANa国際会議で報告された。本プルジェクトは、毎年、アセアンの異なる国を主対象としてインベントリーを作成すると同時に、メインテーマを決めている。本年度は、「アジア建築のパイオニアたち」というテーマであった。

 

以上述べた今年度の活動の成果が、この報告書の内容である。なお、2017年3月の第3回mASEANa国際会議二日目は、インベントリー作成、記録化などにおける体験や困難を分かち合うワークショップを東京大学生産技術研究所で開催した。その記録は別途小冊子として準備している。あわせてご覧いただきたい。

 

 私たち人間は無から生まれたのではないし、真空の中で成長したのでもない。様々な過去、経緯、そして、未来への展望をもって生まれ、生きてきている。同様に、このmASEANa Project 2015-20も、様々な過去、経緯、未来への展望を持ちながら、活動を進めている。それが歴史の一旦を担っているという責務を感じつつ、歴史家のはしくれとして、ここに記録しておきたい。

 

2017年3月17日、ヤンゴンにて。

 

 

ぼくまち通信(1) まちリテラシー

5月8日から9回かけて行われる渋谷区上原小学校との総合学習(計40時間)ぼくらはまちの探検隊は今年で13回目になります。参加者との意思疎通、私の頭の整理のために、今年はぼくまち通信を書いて、皆さんに配布することにしました。以下、その第一号。

はじめのごあいさつ:

本プログラムを主催している東京大学生産技術研究所村松伸です。ぼくらはまちの探検隊、通称、ぼくまち、あるいは、はまち、は、2005年度から正式に始まって、今年で13回目になります。上原小学校の子供たち、校長、副校長、教員の方々、そして、保護者のみなさん、さらには、毎年、このプログラムの助手、隊長、副隊長になってくださった学生さんたちに感謝のことばを、まず、申し上げたく思います。

今年は、上原小学校の教員の方々、保護者のみなさん、そして、プログラムの助手、隊長、副隊長の学生たちに、さらに何より、私自身の覚えとして、通信という名で、それぞれの時期の私の目論見、感想などを記録したく考えました。不定期ですが、時折考えたことを記します。

 

 私の専門は、建築や街、都市の歴史を追跡して、それを現代や未来に役立てる建築史・都市史研究というものです。長年、いろいろな街に行き、あるいは、多様な状況に直面しましたが、街をよくしていくためには、まちリテラシーの向上が必要だとの考えに至っています。建物、都市の物理的なものへの介入は、建築家、都市計画家、土木エンジニアの任務であり、特権でもあります。しかし、それだけでは、まちも村もよくなるわけではありません。そこに住まう、あるいは、そこで活動する普通のひとびとの、むらやまちでのふるまい方のガイドライン、理念などが、必要です。

私はそれを「まちリテラシー」と呼んでいます。ただ、それはあまりにも茫漠としているので、3つのスキルに分解しています。それは、それぞれ、「まちを観察するスキル」、「理想のまちを構想するスキル」、「責任もって関与するスキル」です。これらを小学生、大学生だけでなく、父兄の方も「まちリテラシー」を身に着けるというのがこのプログラムの目標です。

 

第1回目導入授業(5月8日):

導入授業を作ったのは、いつからだったかもう忘れましたが、当初はありませんでした。これを始めた理由は、共同作業や探検のやり方を、子供たち、そして、隊長、副隊長の学生さんにも学んでもらいたいからだったと思います。だれでもが、すぐに共同作業ができるわけでもなく、探検を行うのにも技能が必要です。さらに、各グループでのプログラムの進め方を練習します。これは隊長、副隊長のためでもあります。そして、第一回目に導入授業が始まりました。体育館で組体操のようなことをやっていた時期もありますが、最近は以下のようなプログラムに落ち着いています。

第1回目は、4時限です。1時限目が、私、そして、助手、隊長、副隊長たちの挨拶とプログラムの目的、全体像を紹介します。そして、昨年度のDVDを見ることになります。2時限目は、「まちとは何か」ということを学びます。ここで演繹法帰納法という二つの異なる見方を示しながら、頭のなかで考えているまち(演繹的なまち)と、3時限目におこなう探検で見たまち(帰納法によるまち)とを比べてみます。探検にはこちらで準備したワークシートが用いられます。まちの中で先生を探しなさい、という小さな指令です。そして、最後の4時限目に探検の結果を模造紙にまとめて発表します。

1時限はわずか45分です。大学の講義90分からするととても短く、まして、私の研究室のゼミは延々と5、6時間も続きます。しかし、小学生にとって45分でもその時間はとても長く、それなりの準備をしておかないとすぐだれてしまいます。15分くらいに区切った小さな課題の連続、その際に使うワークシートなど、私たちは、小学校の教員の方々に学びました。導入授業では、昨年度隊長をやって経験のある助手が、まず、手本を示します。隊長、副隊長は、そういったところに注意を向けて、参加してください。